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高山右近と高山・余野

 

 

高山右近とは 

高山右近(たかやま うこん)は、日本史上で代表的なキリシタン大名として知られている。右近は信長、秀吉、家康という三人の天下人の下で生き抜いた武人であり、また、茶の湯をはじめ治水、築城、町割り等、多方面に優れた能力を発揮した才人であった。

高山右近(1552?~1615)は洗礼名をジュシュトといい、父の高山飛騨守(?~1595、図書、洗礼名ダリヨ)は、畿内のキリシタンの先駆けであった。

右近は家臣や領民だけでなく、豊臣政権下で蒲生氏郷や黒田孝高といった武将にも信仰を広げ、キリシタンとして名は国内外に知られている。また、数々の戦歴を持つ武将、千利休門下の茶人としても有名である。

高山右近は、高山の地で生を受け、5歳(7歳とも)の頃、父飛騨守に従って大和・沢に移った。沢城で12歳のときキリシタンに入信し、17歳の頃に父と共に高槻城に移り、和田惟政の麾下に入った。惟政の死亡後、に高槻城であった和田惟政の子・惟長との対立を制して高槻城主となっている(天正元年・1573)。

天正六年には、右近が与力として属した荒木村重が織田信長に謀反を起こした際には、信長は右近にキリスト教弾圧を楯に寝返りを迫る。しかし、この時点の右近は「裏切り」を許さない熱心なキリシタンになっており、苦悩の果てに出家姿で信長の許に向かい、許されて信長に組みすることとなり、高槻四万石は安堵されている。

本能寺の変以後、右近は秀吉方に属し、明智光秀と対戦した山崎の合戦で先陣の戦功をあげ、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いにおいては、佐久間盛政の軍の奇襲攻撃により壊滅的な打撃を受けるが、その奮闘を讃えられ、明石六万石の大名となる。

天正十五年(1587)の豊臣政権による伴天連追放令の際には大名の地位を捨て金沢・前田家に隠棲し、徳川幕府によるキリスト教の禁教令では後半生を過ごした加賀前田家を去り、慶長二十年(元和元・1615)、右近はフィリピンのマニラで没した。

右近の出自

高山氏の出身地の四つの説

①近江国甲賀郡、②大和沢、③摂津高槻、④摂津高山

 

摂津高山の高山氏の記録

 ・西方寺の寺伝「応永二〇年(1413)高山太夫正澄が浄土真宗に帰依して俗道場を開いた」

・長禄三年(1459)高山荘支配をめぐる浄土寺と勝尾寺との相論において浄土寺側の代官として「高山入道」が登場(「勝尾寺文書」)

・文明四年(1473)の段階では、高山次郎左衛門が高山荘の勝尾寺の代官となっている。(「勝尾寺文書」)

・天文十八年(1549)には、勝尾寺奥坊に火事があった際、その処理に高山氏が活躍し、勝尾寺から「高山殿」として敬称され厚遇されている。(「勝尾寺文書」)

・十六世紀中葉、天文十三年(1544)の高山荘納帳を最後に、高山荘の支配に関する史料が『勝尾寺文書』より消え去る。この時期をもって勝尾寺の高山荘に対する荘園支配が崩壊したものと考えられるが、それは同時に国人領主として成長してきた高山氏が勝尾寺から支配権を奪い取り、高山荘の中世支配体制に終止符を打ったことを意味する。

 

高山での遺構(遺跡)

現在、高山の地に入るルートは二つしかないが、この南北の2ルートに対応して二つの中世城郭が存在する。南が「高山向山城」、北が「高山城」である。(図版資料①-1)

① 高山城 城跡は、標高490m、明田尾山系から派生した独立峰状の尾根の山頂部に位置する。当地点からは、余野川筋から高山に入る街道がよく見渡せ、防御上では高山盆地の北方の要衝であるといってよい。(図版資料①-2、3)

郭は単郭で規模は南北方向に43m、東西方向に15~18mで、郭の形態は不整形である。設備としては簡素な造りで目を引くものは少ない。土塁と堀切と付属郭が確認できる。

 

② 高山向山城 向山は高山盆地の中央部分に位置する独立丘陵で、「向城山」とも記述される。『摂津名所図会』(秋里編1798)では、「高山  高山村にあり、四面平曠にして孤峰挺秀なり、故に名とする」の記述があって、この「高山」は向山を指すものと考えられる。

城郭遺構は向山丘陵頂上部の南端部に存在する。高山城に比して規模はやや小さいが、その構造は工夫が凝らされており、遺構の保存状態も良好である。郭の構成は付属郭をもつが基本的に単郭構造であるといってよいであろう。主郭の規模は29m×16m、やや不整形の隅丸長方形状を呈する。(図版資料①-4、5)

堀切、竪堀、帯郭遺構、土橋、土塁遺構が確認できる。

 横堀状の遺構は、摂津周辺地域では天文年間(1532~1555)に出現するものであって、この城郭遺構では横堀形態への過渡的な様相が窺える。また、堀切と帯状郭を連結させていることも新しい段階の築城形態である。遺構の状態から最終的な改修時期は高山飛騨守が高山在住期であった天文年間前後のものと考えられる。

 

高山氏の本拠地

 高山氏の本拠地を考えるにあたって、直接的なものとして高山城の位置する「ジョウヤマ」の小字地名があり、それ以外には小字名や伝承地名として「木戸口」、「殿條」、「侍所」、「弓場」が残る。(図版資料②-6、7)

高山氏の本拠地として、①二つの城郭からほぼ等距離にあること、②両城郭を見通すことができること、③生活可能な空間と水の確保ができること等の条件を満たすところが本

拠地として可能性が高いと考えられる。これらの諸条件を満たす地域は、高山地区においてサワノクボの地をおいてほかにない。また、伝承地として字内に侍所や弓場の地名をもつこともその傍証となる。したがって、高山氏の本拠地がこのサワノクボの地に存在した可能性は高いと考えられる。

このサワノクボの地内のやや南より、弓場の地より小河川を挟んだ北隣には現在八幡神社を祀った小丘陵があり、八幡神社をはじめ観音堂等が鎮座している。これらの地は社殿の創立の際には大幅に土地の改変を受けていることが想定されるのであるが、この地に城郭遺構として可能性のあるものが残っている。現時点ではこの地域を高山氏の根拠地として考えておきたい。

ただし、この地面に残る痕跡が城郭遺構であるのかの断定は難しく、これらが社殿の創立の際の整地等による土木工事や土取り等の結果による可能性も捨てきれないことを付記しておく。

 

余野地区の城郭遺構について

現在、余野地区を中心とした地域に存在する城郭遺構は、図版資料③第1図のとおりである。また、その位置と小字名については第2図で示した。これら城郭遺構の位置関係は、南側の三つの遺構が比較的近接しており、他の2ヶ所はやや離れている。前3者は、いずれも余野集落の中心部に近い独立した小丘陵上に立地しているという共通点がある。先に「存在する城郭遺構」と記述したが、第1図中「幣ノ木城」については、村立学校建設のため戦後まもなく、遺構はほぼ完全に破壊されてしまっている。また、近年の発掘調査の成果では、「幣ノ木城」の東側、旧城山高校グランドの地から、大溝を備えた掘立柱建物が検出されている。この検出された掘立柱建物は、2×2間、掘方の1辺50㎝、柱間寸法約3.0mというかなりの規模をもっている2)。この大溝を備えた建物の存在期が13~14世紀代であることから、余野城に何らかの関連があるものと考えられる。

 

①水牢古城(図版資料④-8、第3図)

野間口地区の妙見山の派生尾根に存在する中世城郭、削平地、土塁を残す。

②大平土居

余野地区の丘陵上の存在する土塁遺構。通称「だいら山」。古文書では、「平某のはま弓場」と記述されている。

③ 余野本城(図版資料④-9,10)

余野本城は、余野字城山の地に存在する。主郭の規模は約130m×80m、隅丸方形を二つ組み合わせたような南北に長い形をとる。

郭は単郭、主郭内は曲輪虎口1、2をつなぐラインで北部分と南部分に区分され(以下、「北郭」「南郭」と呼称する。)、その構造の差から両者の場の活用方法が異なるものであったと推定される。北郭は西・北に逆L字型に土塁を配している。

南郭は、北郭より平面規模がやや大きいが、北郭で配置された土塁は存在しない。南郭中央部のやや南には、地山を掘り残した櫓台状遺構が存在する。

城外から主郭に至る虎口形態には非常に工夫が凝らされており、この規模の単郭城郭では類をみないものとなっている。。

主郭全周には横堀が囲繞する。横堀よりは、堅堀が伸ばされる。郭西側部分のほぼ全面には、畝状空堀群が配されており、横堀とともに築城年代推定の鍵として注目に値する。

城外の虎口付近には石組み井戸がある。この井戸は城の井戸と伝えられているものである。この区域に生活の場があった可能性がある。

畝状空掘群と横掘遺構は築城年代を推定するのに重要な鍵となる。八上城研究会は、この城郭を「横堀+堅掘遺構」のグループとして、永禄~天正時代前半期(1558~1580ごろ)に構築された遺構と考えており、高橋氏はこの遺構の年代を天文末年~永禄年間(1550ごろ~1570)と考えている(高橋2004)。

④幣ノ木城(図版資料④-11) 

 幣ノ木城は、字「幣ノ木」に存在していたもので、遺構の遺存状況も良好であったようであるが、昭和20年代に村立中学校の建設のため惜しくも姿を消した。『東能勢村史』(森1919)の記事は次のとおりである。

 幣ノ木の壘趾

 大字余野幣ノ木の小丘にして、東南に平地を控え、北、西、二方は山地に續き、此所に濠を作る事東西十余間、南北六十間に及び、土壇の趾歴然として残れり、余野山城守造る所と傳ふ。

証言による復元図では、塁線の直線化や直角化が進み、馬出し状の虎口など織豊期の構築である可能性が高い。曲輪部分の盛土に、矢倉があった可能性がある。

西と北の土塁にあった石垣はそれが存在した可能性はある。現在の遊仙寺の石垣石がそうであるという。

⑤城の越城(図版資料④-12)

城の越城は、余野字「下所」に存在する。この遺構は妙見山からの派生尾根部分の突端の丘陵上に立地する。主郭の規模は約115m×50m、逆「く」の字形の東西方向に長い形をとる。郭内は、石垣・石積みや埋没した礎石等、瓦類の散布は皆無である。

郭は複郭で、最高所の主郭と考えられる郭に対して求心的に曲輪が配置されている。

この城郭遺構は、かなりの規模と交通の要衝という立地条件をもっているのに、なぜか地元に伝承が全く残っておらず、地元民の認知度はほとんどない

記録に表れた余野地区

ルイスフロイスの日本史

第1部39章 

「摂津国の余野というところに、ダリオの大の友人で遠縁にあたるクロダ殿という身分の高い貴人が住んでいた。」

 ※ この貴人は、余野城主に該当すると考えられる。その名をフロイスは「クロダ」「クロー」「クロン」殿と記述しており一貫性がない。一般にいわれている「黒田」殿ではなく、「蔵人」、「九郎」殿という呼称ではないかと推察される。

 ※ダリオとは高山飛騨守のことである。

「クロン殿は、(中略)ロレンソ修道士を呼ばせた。(修道士)は四十日間、その地に滞在して彼ら説教し。(中略)ついにこの期間の終りにクロン殿は、妻子、兄弟、父および家臣たちとともに洗礼を受けるに至り、同家の人たちだけでも53名を数えた。」

「(前略)止々呂美というところで、クロン殿の別の家臣たちに説教した時に、約6、70人名が教理の説教を聴聞した」

 「その後、数ヶ月を経、すでに高齢であったクロン殿の父は病気となり、その生涯を良く全うした。その後間もなく、クロン殿自身も病気となった。(中略)父の没後、ほどなくその息子(であるクロン殿)も逝去するに至った。」

  「(そしてその奥方は)その血統から言うと非常に高貴な方で、池田殿と言うその(摂津)で最大の殿の一人の実の娘であった。」

 ※ 池田殿とは、摂津国人の池田氏であろう。「彼女はまだ若く、四人を数えた息子や娘たちもまだ幼児であったので、(亡き)夫に代わって同家を管理していた。」

「彼女は(中略)亡夫の兄弟と結婚した。」

 「その後数年を経、ダリオ(高山飛騨守)の息子ジュスト右近殿は、当時13、4歳であったこの奥方の長女と結婚した。」

 高山右近夫人が余野城主の娘であることは現在の定説になっている。その根拠はこのフロイスの『日本史』の記述によるものである。

「信長と荒木の戦争の結果、信長は池田の所領をすべて他の大身たちに与えたが、この奥方の所領である余野もその中に含まれていた。そのため彼女は追放され、他に方策もなく、困窮のあまり高槻に赴いた。」

「信長が殺されたその同じ年に、その後継者羽柴筑前殿が越前国に進み、同国の君主柴田(勝家)殿を切腹せしめるという(戦い)が生じた。この激戦において、参戦していたマリアの年長の息子二人―母親とともに回心して(キリシタン)の信仰に立ち帰っていた―と、同じ年にキリシタンになったその夫も戦死したので、マリアには(当時)三人の娘が残るだけとなった。」

松田氏の研究(松田0000)によれば、クロン夫人の記事について「夫人の記事は年代が不明である上に矛盾している」と述べているが、右近夫人が余野余野出身ということは揺るがないところである。

 

整理すれば次の諸点となる。

① 永禄7年当時の余野の支配者はクロン殿であった。

② クロン殿とダリオ(高山家)とは友人で遠縁関係にあった。

③ クロン夫人は、池田家の関係者からクロン家に嫁いできた。

④ クロン殿はダリオの勧めに従い、宣教師ロレンソを呼び寄せ四〇日間説教を受け、クロン殿は、妻子、兄弟、父および家臣たちとともにキリスト教に入信した。

⑤ 永禄7年~8年ごろにクロン殿とその父親は死去した。

⑥ クロン殿の死去にともない、その兄弟が余野城主となった。(夫人はクロン殿の兄弟と再婚した)

⑦ 荒木の乱で、余野城主(クロン殿の兄弟)は追放の身となり、高槻の高山右近に仕えた。

⑧ クロン夫人の長女は高山右近の妻となった。

⑨ 賤ヶ岳の合戦で、クロン殿の兄弟とその息子(クロン殿の子も含む)は戦死し、クロン殿家の男は絶えた。

岸本家の文書

岸本家文書のうち『摂津國能勢郡の内与野村古記改集』

和銅年中ヨリ応安応永文禄延宝元禄之書記

  摂津國能勢郡の内与野村古記改集 

     元禄巳来安永二至り改修し合巻トス

         岸本惟明書之(花押)

     (巻末部分)

  応安応仁天正年間岸本伊賀守原吉様書記

  文禄巳来延宝二至り、岸本平兵衛吉貫書記

  延宝巳後元禄年間岸本源助吉明書記

  元禄巳来安永二至り付録し合巻トス、

               岸本日部惟明書記

 

氷室古城山の南に有、むかし都に氷を上しとなり

古城ハ多田末流のきつく所也、西東出丸二ヵ所あり、野間峠二会候、有応仁乱尓亡落ス、其時九頭宮を地黄村に移し今森と残れり

中山ニ平頼言代々此所に住ス、永享年中断絶 今だいら山と云ハ平士の一ト丸也、はま射場あり、

永禄年間正親町院の御時、能勢山城守頼保、此所を押領シ古城の東に堡を築き、古出丸を舘とし地黄城主野間城主能勢三惣領と時ニ称せり、

 天正に至りてむかしより定れる天役課役三田の法をも不用、寺社所の破壊をもいとはず高山右近に組し邪法を行い我侭日々長し、後高山とも執(又は挑カ)をなし大ニ乱れ、其時岸下伊賀守吉治江州に在し候、山城守招に応し旧地のよしミ難懸止其我意を諌ム、高山右近とも一旦和睦させしカ、終に其□□(イト?虫喰)すして天正十二の春三月高山に会候有しカ、其夜帰るや否煩乱して死す、居城出丸一時に消失断絶となる、吉治此所に帰り其余類を助て治ム、天役貢銭七十貫文に定まる

 

東能勢村史(大正年間、森孝順)

(前略)所領は再び能勢氏の一流余野山城守頼幸の手に歸せり、時に明應二年なり、此時余野氏は與野村の南方に城を築き、(今字城山と云う)

堡を幣ノ木丘上に設け、其南麓に舘を構えて(字本宅)之に居り、以て兩村を治めたり、當時の人々地黄城主、野間城主と併稱して能勢の三惣領と云へり。

天正年間に至り山城守國綱、織田信長の臣高山右近将監と深く交わり、切支丹宗門に歸依せしより以來、課役當を失し苛法を設けて百姓を苦しめ、剰へ附近の社寺を破却する等暴戻日に募りて家臣の諌を用ひず、後には右近とも隙を生じ、遂に天正十二年春三月、雪と散り敷く落花を蹈て、隣村高山城に右近を襲ひしが、あはれ武運は敵に廻りて戰利非ず、退て城中に自刃し、城舘亦た一時に焼亡せらるると傳ふ、又一説に天正八年高山右近将監丹波の諸城を陥れ進んで萬願寺を焼き、更に摂津に踰えて余野城に迫る、國綱破れて遂に民間に降れりとも云へり。

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